フランスの森
女を引っかけた。
いや、正確にはあの女が俺を引き込んだと言ったほうが正しい。
白いワンピースに身を包んだお嬢様みたいな娘。顔は穏やかで整っていて、その微笑みには見る人を引き込むような魅力がある。
気が付けば声を掛けていた。時刻は22時。下心見え見えだっただろう。でも女はすんなり承諾してくれた。
店に誘おうとしたが、女は「もっと楽しいことしましょう」と俺を家に招いてくれた。
高そうなマンションの一室。中は整理が行き届いてて、とても綺麗だった。
「家具にはこだわってるのよ」
女は言った。
「例えばどこに?」
俺は訊いてみた。
「例えばこのタンス。あ、ベッドも。机なんかもそう。フランス産の木材を使ってるの。いい香りがするでしょう」
「それだけ?」
「なにか不満かしら?」
まあ、香りが最悪だと家に帰る気も失せる。大切なことだ。
「確かにいい香りだ。ここはもうフランスの森だな。」
「確かにそうね。森の中にいるみたい。」
しかしそれ以上に、俺はこの家には素晴らしいものがあることに気付いた。
「レコードプレーヤーか。」
「ええ。あらら、そういう物に趣があるの?素晴らしいわね。」
偉そうに。自分の趣味を他と比べて高尚だと勘違いしている人ほど厄介なものはない。
「なんか流してよ。」
試すような口調で俺は言った。
「言われる前からそのつもりよ。」
女は慣れた手付きでレコードをプレイヤーにセットして、針をそっと乗せる。
じんわりとした温かみを乗せ、音が鳴る。
俺は聴くなり、「ああ」とため息を小さくついた。
「モーツァルトは好き?」
「どうだろうな。意識したこともない。」
反吐が出る。クラシックは別に嫌いではない。これはここでクラシックを流すこの女に対する失望だ。
だが勝手に期待して、勝手に失望したのは俺。別にいいじゃないか、ステレオタイプでも。道を外さず生きることは素晴らしいことだ、と心に言い聞かせた。
「ずっと立ってると疲れるでしょ。適当に座って。」
とは言っても近くに椅子はない。女のベッドに腰掛けるのは流石に気が引けるので、仕方なく床に座った。
今日は何をしていたとか、そういった他愛もない話を交わす。
内容は覚えていない。いつか来るであろう「そのとき」を待ちわびながら、ソワソワしていたからだ。
痺れを切らした俺はついにもう1段階先に進もうと口を開く。
「酒はあるのかい?酔いたい気分だ。無いなら今から買うけど。」
「お酒、飲んだことないの。お茶ならあるわよ。もっとお話しましょうよ。」
俺は流石に怒ってしまった。ここまで男としての尊厳を踏み躙られたのは初めてだ。
「お嬢ちゃん。いくらなんでも純粋すぎる。確かに俺は何をしたいと思ってあんたに声を掛けたのか明確にしてない。でもな、少なくともそれは優雅にお茶を飲みながらお話することじゃないし、はっきり言う。俺は…」
俺はつまらん女の身の上話なんかこれ以上聞きたくない。興味あるのは抱かせてくれるかどうかだけだ。
とは流石に言えなかった。
「俺は…何かしら?」
女は意地悪く俺に訊いてきた。
その悪魔のような微笑みがまた魅力的で、俺は見惚れてしまった。
モーツァルトの美しい男声のハーモニーが響き渡る。何を言ってるのかは分からないが、俺のことを「臆病者」「色欲魔」と罵っているように思えた。
「俺は…」
女は瞬きせずに、その微笑みをずっと俺に向けている。
「俺は………男だ。あんたみたいな上品な女の話聞いても多分共感出来ない。だから、楽しくない」
「分かってない人ね。」
女はもう笑っていなかった。
「私明日仕事なの。寝ていいかしら?」
これからが曲の盛り上がるところだろうというのにレコードプレイヤーを強引に止め、女はこちらを見もせずおもむろにベッドに向かっていく。
突如訪れた静寂に俺は耐えられず、額を流れる冷や汗を感じながら思わず口を開いた。
「………俺は休みだ。…もう…ちょっと遊びたかったが、なら仕方ない」
屈辱を噛み潰しながら、平静を装いながら、俺は言った。
「最も家主は私。寝ていいかしら、なんて許可を取る必要なんてないわね。」
女はベッドに仰向けで寝転びながらふふふと一人で笑っていた。
寝ていいかしら、ですって。と独り言を言っていた。
「俺はどこで寝ればいい?終電はもう無いから、泊まらせてもらう。」
最後くらい図々しく行こうと、俺は言った。最悪床でもいい。
しかし、壁側に寝返りを打って携帯を見ながら、無愛想に女は言った。
「私自分が寝てるときに周りに人がいるのが耐えられないのよ。私の見えないところで寝て。申し訳ないわ」
俺は部屋から出て、廊下に布団を敷いて寝ようとしたが、「そこもだめよ。少しだけ目に留まってしまうわ。耐えられない。」と言われ、浴室に入り浴槽に体を埋め、そこで寝ることにした。
当然、全く眠れなかった。それは無理な体勢を取っていたことだけが原因ではない。
目覚めると、女は部屋にいなかった。可愛い小鳥は逃げてしまったらしい。クローゼットが開いており、「仕事」ってやつに行ったんだなということが何となく分かった。
仕事とはなんだろうか。OLなどではなさそうだ。正直、そもそも仕事をしているようには見えなかった。
しかし辺りを見回す内に、俺は気付いた。
クローゼットにあった服は、全て男物だった。
黒、茶色のコート、柄物の緑色のパーカーと並んで、奥の方に昨日着ていたワンピースが気まずそうに架かっていた。
レコードプレイヤーにはまだレコードが乗っていた。そういえば昨日のクラシックのタイトルを聞いていなかった。男性がひたすら同じことを繰り返し歌う曲だった気がする。レコードを取り出し、タイトルを見てみる。
モーツァルト『俺の尻を舐めろ』
俺はそれを粉々になるまで踏み潰した。
そのあと煙草に火を付け、一度ゆっくり吸ったあとベッドに投げ捨てる。燃え広がる前にあの家を後にした。どうなろうが知ったことではない。素敵なフランスの森だ。よく燃えるだろう。
だが悠々とした気持ちで駅に向かってる途中で気付いてしまった。
財布と携帯がない。ポーチの中に入っていたはずなのに。
俺は焦ったが、どこを探しても無かった。
代わりに昨日までなかったメモの切れ端がポーチの中に入っているのを見つけた。
そこには、走り書きではあるが、綺麗な字でこう書かれていた。
「純粋なのはどっち?」