忘れもしない。
10年前、Tシャツがへばり付くような暑さの夏だ。
小学6年生だった黒澤隆は、人を殺した。当時の彼には金が無かった。だから盗みに入ったら人がいたから殺した。それだけだ。
少年法のおかげで法律は彼を許したが、世間は彼のことを許さなかった。当時はインターネットが発展してなかったとはいえ、住所を特定されるくらいのことはされた。毎日のように暴言が書かれた手紙が届いた。その中には、日本語ではない言語で書かれたものもあった。カッターナイフの刃が大量に届いたこともあった。黒澤隆本人は施設に入っていてそこにはいないということは、彼らにとっては別問題らしい。
そこにいたのは母だけ。母は手首を切って死んだ。
施設から帰ってきた隆は心優しい伯母に引き取られ、名字を伯母に合わせて変えた。
彼女は「悪いのはあんたの父さんだからね。可哀想にね。」と口癖のように言っていた。
確かに父、俊夫は最低なやつだった。不倫をして母を捨ててからどこに行ったのか知らない。彼が盗みをしなくてはいけなくなった原因を作った男だ。
しかし不思議と隆は父を全くと言っていいほど恨まなかった。なぜかは分からない。
時が経ち、今ではそんな事件のことなど誰も覚えていない。報道されることもないし、隆の顔を見ても、誰もピンとこない。
今や隆は大学生になり、将来結婚するだろうなとなんとなく思える彼女も出来た。友達も、人並みにいる。
楽しい生活だが、このまま生きていていいのだろうかという不安が常に付きまとっていた。いつか、天罰が下るのではないか。
そんな悶々とした不安を少しでも和らげるために、出来ることはあるだろうか。
「被害者の家に行こう」
彼は決断した。
この事件に彼なりのけじめを付けようと思ったのだ。
謝罪をして、お互いに蟠りを無くす。追い返されてもいい。
元々決断力と行動力には定評があった。だからこそ、人を殺せたのだ。
8月11日。事件からちょうど10年の日を、決行の日とした。
17時頃に目的の駅に着き、隆は迷うことなく歩き続ける。10年経っても、忘れられそうにない場所だ。
大体15分くらい経っただろうか。
その場所は、少し古びてしまったことを除けば、10年前と何も変わっていなかった。行書体で「白井」と書かれた表札が目立つ、3階建ての大きい家だ。庭にある大きなブランコも、花壇も、そのままだった。よく手入れされている。
窓からは温かい光が漏れていた。知らない人が一見すると、幸せな家庭がそこにはあるように見える。
覚悟を意味する深呼吸をして、インターホンを押す。
5秒ほどの時が流れる。
「どちら様ですか」
中年女性の声がインターホンから聞こえた。
隆はこの声を知っている。
「黒澤隆です。」
自己紹介はこれで充分だろう。
名字を変えて以来久しぶりに口にする黒澤という名字に、一瞬戸惑ってしまった。
しかし、返ってきたのは意外な返事だった。
「存じませんね。主人のお知り合いですか」
隆は少し考え、まさか、と小声で呟いた。
「ええ、私白井さんの直属の部下でして。今回白井さんの助言のお陰でプロジェクトが成功したので、お礼に菓子折りを。」
「ああ、そうでしたか。主人はもうすぐ帰ってきます。どうぞお入りください。」
鍵の回す音が鳴り、ドアが開いた。
「あら、わざわざスーツでお疲れ様です。さあさあ、どうぞお入りください。」
隆は玄関に通される。
靴を脱ぎ、スリッパを履いて、リビングへと入る。
「今お茶をお持ちしますね。…悠介、お客様来たからテレビ消すわよ」
女性はテレビを消そうとしたが、隆は「いいですよ、少し賑やかな方が好きです。」とその手を止めた。
「それに、息子さんも退屈されるでしょう」
隆はソファで行儀よく座っている悠介に笑顔で会釈した。まだ会釈の意味が分からない悠介は気まずそうに女性に視線を移す。
「そうですか、ごめんなさいねぇ。」
女性はそう言い、テレビの音量を下げた。
「座ってよろしいですか?外は暑くて、くたくたで。」
本心だ。
「どうぞどうぞ。大変だったでしょうに。」
テーブルに腰掛けた隆は改めてリビングを見回す。10年前と何も変わってない。物事はそう簡単に変わることはできないことを知った。
お茶を差し出し、隆の前の席に女性も座った。
「宗介さんは会社ではどんな人なの?」
「…宗介さんは……常に頼りになり、助言も的確で、神様みたいな存在です。」
「あら。」
女性は嬉しそうに笑った。よほど夫のことが好きらしい。
「『宗介』…なのか」
「なにか言いました?」
「いやいや、何もないです」
独り言を聞かれそうになり、慌てて誤魔化した。
突然のことだった。
悠介が女性にパンを恐る恐る差し出し食べていいか尋ねてきたのだ。キッチンから見つけ出してきたらしい。
女性の楽しそうな顔が一変し、真顔になった。
「悠介!!いい加減にしなさい!!お客様がいるでしょう!!パンなんて勝手に食べろ!!そもそも夕飯まで待てないの??意地汚い!!」
悲鳴にも似た大声で女性は悠介を怒鳴りつける。悠介は完全に萎縮し、その場から立ち去った。
女性はその真顔のまま隆を見つめる。
10秒くらいの沈黙が流れたあと、「ああ、そうか…」と女性の囁くような声が聞こえた。
「ごめんなさいね」
「いいんですよ。子育ては時に厳しくなければ。」
「もう帰ってくれませんか?」
「ええ。そう言おうと思ってました。」
「二度と来ないでください。」
「ええ。もう来ませんよ」
「帰れ!!」
返事はしなかった。女性の目には涙があった。
隆はそれ以上何も話さず、白井家を後にした。
帰路に付き、思考を整理しながらおぼつかない足取りで歩いていると、虚ろな目をした知っている顔の男とすれ違った。
すれ違ったあとしばらくして、隆は彼の後をこっそりつけた。
そして彼があの白井邸へと入っていくのを見て、疑念は確信に変わった。
彼こそが、白井宗介だ。
正確には、彼は「白井宗介とされている」。
隆は引き返し、また帰路に付いた。
人気のない路地に入り、ぶふっと一発吹き出すと止まらなくなった。
「あはは、あはははははは」
隆は笑いながらポケットから煙草とライターを取り出し、咥えて火を付ける。
一気に煙を吸い込み、気持ちを落ち着かせ、ふーーーーーっと吐き出す。
「……………異常だ。」
隆は呟いた。
あの女性…白井花子は10年前と比べて年老いてはいたが、確かに白井宗介の妻であり、白井悠介の母だ。
しかし、宗介も悠介もこの世にはいない。
隆が10年前に殺したからだ。彼女の目の前で。
出かけていると聞いて白井家を襲ったが、忘れ物をしたとかで一家揃って一度帰ってきてしまったのだ。それが彼らの運の尽きだった。
ナイフで何度も刺した。隆は人を殺したのは初めてで、どれだけ痛め付ければ人は死ぬのか知らなかった。35歳のエリートの宗介青年と4歳の将来有望な悠介少年は、12歳の隆の凶刃に倒れた。
隆が念入りに何度も刺していたおかげで、花子は隙を見て逃げることが出来、その場で隆は警察に掴まった。
さっき彼女が悠介として扱っていたのは、汚い、手入れも禄にされていない年老いたレトリーバー。
覚えている。10年前、隆によって飼い主が殺される様を間抜け面で見ていた犬。
パンを食べていいかの判断も出来ない、従順な「演者」だが、14歳を演じるにはあまりにも知能が低い。見ていたテレビは教育番組だったが、内容を理解していたわけがない。
学校などはどうしていたんだろうと隆は考えたが、その矛盾を正当化してしまうほどの強烈な妄想症を彼女は患ってしまったのだろう。
宗介のほうは、おそらくさっきすれ違った中年男性…宗介の弟である洋介が演じている。裁判のとき隆を鬼の形相で睨んでいたのを覚えている。
可哀相な男だ。隆は同情する。
亡き兄が愛した女性を救うために、日々彼女の狂った家庭ごっこに付き合わされてしまっている。隆は自分のしたことが想像以上に多くの人生を狂わせていることを知った。
だが、花子は「気づいた」
一向に知能が幼いままのレトリーバーを大声で叱り我に返ってしまい、黒澤隆の名の意味するところをじわじわと思い出し、隆を追い返してしまった。
これから彼女は自分のしてきたことを振り返り、真実を思い出し、発狂するだろう。
これは花子にとって幸せなのか不幸なのかどちらだろうか?隆は考えたが、分からなかった。
隆はこの期に及んで笑いが止まらなかった自分を冷静に客観視する。
父のことを嫌いになれない理由が分かった気がした。
5分ほどして、煙草を吸い終わり、隆は立ち上がる。
「さて」
深呼吸をして呟く。
隆は右手で鞄からナイフを取り出した。
左手に持っていた煙草を地面に落とし、踏んで消火する。
振り返ると、花子が包丁をこちらに向けて立っていた。表情はちょうど夕陽の逆光でよく分からなかったが、きっと怖い顔をしている。
「10年前のけじめ、付けないとな。」
けじめをつける…物事を綺麗に終わらせることを意味する言葉だ。
謝って、お互いの蟠りを無くすことだけがその手段ではない。隆にとって、今起こっていることは想定内だった。
彼には花子の怒りに狂った様を見ても尚、ここで死ぬことはないという確信があった。
決断力と行動力があり、そして何より彼女には人を殺せないということを、10年前から知っているからだ。